●「甲午戦争」について特別頁を設けている『解放軍報』紙のサイト
http://www.81.cn/2014jwss/index.htm
『
「WEDGE Infinity」 2014年03月29日(Sat)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3724
日清戦争再発を暗示する
中国の不気味な宿命論
「再び巡ってきた甲午の年」
再び巡ってきた甲午の年。
この「甲午の年」というフレーズは2014年に入ってから盛んに中国のメディアを賑わせている。
というのは2014年の今年は中国における旧暦の「甲午の年」だからだ。
日本人には馴染みが薄いこの「甲午(こうご)」とは中国人にとっては恥辱の歴史の代名詞である1894年の「甲午戦争」(日清戦争)が起きた干支(えと)であり、旧暦「きのえうま」を意味し、干支の60年周期で31番目の年を指す。
そして今年は日清戦争勃発からちょうと120年目に当たるのだ。
■国威発揚のまたとない機会
尖閣諸島の領有権や歴史認識を巡って日中関係がかつてないほど冷え込む中、「甲午の年」が再び巡ってきたということで、中国では国威発揚のまたとない機会として党や軍の宣伝部門が「甲午戦争」を取り上げて愛党、愛国、国防の必要性を訴えるキャンペーン(『解放軍報』紙サイト「中国軍網」は特設頁〔写真〕を設けているほどだ)を展開している。
そしてキャンペーンに止まらず、これを宣伝や教育政策にも反映させる動きが出ている。
立法機関である議会に当たる全国人民代表大会では代議員たちが日清戦争を記憶し、愛国主義や国防に生かす必要性を主張し、制度化しようしている。
そこで『解放軍報』から二本の記事を取り上げ、紹介したい。
1].一本目は解放軍芸術学院の文学部主任である徐貴祥教授による
「歴史の宿命?―甲午戦争文化黙考録シリーズ」
であり、
2].二本目は「今日、どのように国恥を記憶するかー全人代の軍人代表たちが甲午の年に強軍建設を提案」という記事だ。
後者は3月17日に閉幕した「両会」(全国人民代表大会と全国政治協商会議の二つの議会に当たる会議)に際して連載された特集であり、日清戦争と軍の政治思想統制や教育を関連付けた代議員たちの政策提案を紹介している。
******
記事(1)【2014年3月20日『解放軍報』(抄訳)】
2014年は1894年に勃発した中日の甲午戦争からちょうど2周回甲午年を経た年だ。
この120年間で世界は激変したが、中国の軍人からするとあの敗戦はあたかも体から取り出せない銃弾のようであり、胸の傷口は未だに癒えないままである。
1840年のアヘン戦争から1894年の甲午戦争の勃発までの間、中国人は既に「天に頂かれた国」(自意識過剰な国という意:筆者)という看板を下ろし、林則徐は海外に目を向けるようになった。
アヘン戦争が中国の鎖国の扉を強制的に開かせたが、中国の朝廷は依然として国力が衰退しているという事実を信じることはなく、「天朝上の国に四方から朝貢に訪れる」という美しい夢を見続け、戦争の失敗を外人の「魔術」によるものと決めつけて神が助けてくれるものとばかり希望を託していた。こうした迷信によって朝廷は麻痺し、民衆は絶望させられた。
■「兵士の資質に問題があった」
●記事が掲載された『解放軍報』
一衣帯水の隣国である日本は中国のアヘン戦争において喝を入れられて夢から醒め、中国人に替わってこの戦争を反省した。
佐久間象山は、清朝の失敗を
「彼(西洋諸国)の実事に熟練し、国利をも興し兵力をも盛んにし、火技に妙に、航海に巧みなる事遥かに自国の上に出たるを知らずに居候故に」
(イギリスが、清朝よりも遥かに進んだ軍事力を持っていることを知らなかった…:筆者)
と指摘した。
こうした惨敗を経ても朝廷は超然としており、学習しなかっただけでなく、外国を俗物と見なしていた。
日本民族は学習によって立国し、西洋列強によって開国を迫られてから中国と西洋を比較し、「学をなす要は格物究理に在り」と有用の実学を発見した。
アヘン戦争後、日本人は中国の状況を把握し尽くしただけでなく打開策を見つけた。
中国を侵略し「脱亜入欧」して、東方のボスとなろうとした。
1868年に明治天皇は「古いしきたりを打開し、世界に知識を求めよ」と号令をかけ、西洋の進んだ文化を学び、留学生、使節団を派遣し、鉄道電信を興し、教育を普及させた。
天皇も節約節食し、民衆は寄付も行い、一体となって軍備を拡充したことは伝説の様に中国人によく知られている。
李鴻章はドイツから「鎮遠」、「定遠」など十数隻の軍艦を購入し、仰々しく日本に訪問さえしたが、日本の代表団は北洋水師の艦船を訪問した際にすぐにその破綻に気付いた。
洋務運動を通じ構築が進められていた
●中国の海軍は、艦船の排水量でも、火器の装備でも日本の海軍と遜色なかったが、
●装備を操作する兵士の資質に問題があった。
●規律は弛緩し、
●訓練は統制がとれておらず、
●汚職が蔓延しており、
●闘志がなかった。
日本のある大佐は白い手袋をはめ、軍艦の砲台を撫でたあと埃がついたのをみて、軽蔑的笑いを浮かべ、絶対的自信をもって開戦を求める書簡をしたためた。中国の甲午戦争での失敗は、兵力の相違、装備の相違でも戦術、技術が原因ではなかった。
★.民族精神、先進的文明に対する学習態度の違いだった。
今日、習近平総書記は中華民族の偉大な復興という中国の夢を提起し、中国の人々の愛国心を大いに鼓舞している。
私たちは歴史を鑑とし、屈辱と失敗に向き合い、教訓を客観的に総括し、改革開放を深めて思想観念の束縛を突破しなければならない。
■全人代での軍代表の言葉
記事(2)【2014年3月13日『解放軍報』】
今から120年前の甲午の年。
中国近代史上一つの屈辱的戦争が悲痛な傷跡を残した。
時はめぐりまた再び甲午の年が巡ってきた。
今日の中国は既に他人に凌辱され、分割された屈辱の歴史から脱して国際的地位でも総合国力においても天地を覆すような変化を成し遂げている。
全国人民代表会議の軍代表(軍を代表して出席した代議員たち:筆者)たちは、中華民族の発展、運命に大きな影響を与えたあの戦争から教訓として何を得たのか。
●同じく2つ目の記事が掲載されている紙面
白文奇(海軍中将、元北海艦隊政治委員)代表
我々の北海艦隊の艦艇は、通常甲午戦争が発生した戦場に赴くことが多いが、毎回波しぶき立つその海域に入るたびに、沸き立つ砲声を聞くかのような思いに囚われる。
歴史を刻み、国恥を忘れないことは一人一人の北海艦隊兵士たちの必修科目となっている。
我々一人一人の兵士において歴史の詳細は時間の流れとともに流れ去ってはいない。
1894年7月25日、日本軍は清朝の兵士輸送艦隊を奇襲攻撃し、豊島海戦が勃発した。
9月には大東溝海戦が勃発し、11月には大連が陥落した。
翌2月17日、北洋水師は威海(山東省沖)で壊滅した。
かつて兵士に聞かれたことがある。
一体いつを記念日にすればいいのだろうかと。
そこで私は次のように言った。
甲午戦争記念日をいつにするかは重要ではない、重要なのは君が国恥を心に刻むことであり、どのように奮起して中華民族の悲劇を繰り返さないようにするかだ、と。
王華勇(海軍少将、東海艦隊政治委員)
一枚の「下関条約」(中国語では「馬関条約」と呼称:筆者)は屈辱的に領土の割譲と賠償を迫っただけでなく、清朝が行ってきた洋務運動(西洋化を図り近代化する活動:筆者)を通じた強国実現構想を御破算にした。
中国近代の反侵略戦争において甲午戦争は最大規模で最も残酷で影響も最も深い戦争だった。
中国の植民地化プロセスを加速させ、近代化を中断させ中華民族の運命は歴史的谷底に陥った。
日清戦争前に日本の大本営は制海権の策を練った。
その一方で清朝、李鴻章はこの重大な戦略問題に対してぼんやりしたままだった。
戦時に海軍がどのような役割を果たすか、明晰な考えを持ち合わせていなかった。
朝鮮と開戦してから日本海軍は充分に準備を整え、中国艦隊に対応すべく精力を集中した一方で、中国海軍は敵との遭遇の回避を図り、決戦に備える思想、軍事的準備を整えていなかった。
制海権の放棄と喪失が日中戦争で敗北した重要な戦略的原因だったわけだ。
莫俊鵬(陸軍少将、第二砲兵22基地司令員)代表
120年前にアジア最強の艦船を保有した清朝の軍隊は、それにもかかわらずあの戦争に敗北したのである。
一つの重要な敗因としては、朝廷が上から下まで民族的危機感を心に刻んでいた人はそれほど多くなく、主流を占めることはなかったことが挙げられる。
北洋水師(清朝の海軍:筆者)は、風紀紊乱(ふうきびんらん)に陥り軍規は乱れ、悪弊が蔓延していた。
歴史は一面の鏡であり、我が国の安全保障が直面する挑戦とチャレンジは未曽有のものだ。
現在の平和ボケを徹底して取り除き、「定遠号」の鉄の錨を永遠に心に刻み、民族と国家の大業を重視し、国防と軍隊建設を念じて、戦わねばならず、準備を整える必要がある。
******
■蔓延する汚職 近代化への焦燥
【解説】
日中関係が未曽有の行き詰まりに陥る中、中国メディアを賑わす日清戦争120周年の話は日本人からすると不気味に映る。
中国は一体戦争を欲しているのか、
日本に攻撃を仕掛け、日清戦争時の屈辱を晴らそうとしているのか、
という疑問さえ湧く。
しかし、上記のように紹介した文章を詳細に見てみると、重点は日本との戦い云々よりも、
●.歴史的教訓として軍の近代化と改革を進めるべきと考え、
●.汚職の蔓延や効率の悪さで遅々として進まない近代化への焦燥が窺える。
王毅外相は「両会」記者会見の席で2014年は「1914年でもなければまして1894年などではない」と歴史の再発を否定する発言をしている。
10年ほど前に中国国内で『共和へ向かう(走向共和)』というドラマが話題になったことがある。
日清戦争を経て革命時代に突入し、最終的には中華人民共和国を設立するまでのプロセスを描いた大河ドラマだが、戦争の描き方が党プロパガンダと少し異なっていたため議論を呼び、一度放映されたきり再度放送されることはなかった。
問題視視されたのは、
日本が国防の近代化のために明治天皇までも食事を我慢して国力増強に備えた歴史の教訓として描いた点であり、まさに今回取り上げた論評や代議員たちの提案と似た論調だった。
①.中国において国の発展、軍の近代化を阻害する大きな要因の一つが汚職
だということはこれまで別の記事でも紹介してきたが、その後、軍のトップだった徐才厚・元中央軍事委員会副主席が身柄を拘束された、とか現職の国防大臣の汚職関与の噂さえも華僑系ニュースを賑わすまでになっている。
②.こうした汚職のほかにもう一つのポイントが機構改革だ。
昨年秋の3中全会以降に俎上に上がっている軍機構改革は1985年の100万人削減、1997年の50万人、2003年の20万人と大ナタが振るわれた削減に続く4回目の兵員削減に当たる。
兵員削 減と機構改革は表裏一体であり、それに汚職という要素が加わり、機構改革をより困難にしている。
こうした中で日中戦争の教訓を持ち出して機構や人員刷新を図ろうとするのは中国ではオーソドックスな手法だ。
習近平政権は政府、党中央に改革を深める指導グループ(全面深化改革領導小組)と称するタスクフォースを設置して一気呵成に改革を進めようとしている。
軍にもこれに対応したタスクフォースを設置して、習近平がじきじきにその長に就任し、許其亮と範長竜という二人の中央軍事委員会副主席がその副組長になった(許は常務副組長としてイニシアチブをとるようだ)。
さらにその下に分野別タスクフォースも設けられ、更迭された谷俊山が所属した兵站部門でも改革タスクフォースの会合が開かれた。
とは言いながら、日清戦争を云々する論調は今年1年を通じてこれからより盛り上がる可能性があり、日本人にとって不気味であり、うんざりだ。
それでも私たちはこうした中で発せられる一つ一つの文章や指導者の演説を冷静に分析し、メッセージの意味や発せられるシグナルを忖度(そんたく)することが重要なことには変わりはない。
弓野正宏(ゆみの・まさひろ) 早稲田大学現代中国研究所招聘研究員
1972年生まれ。北京大学大学院修士課程修了、中国社会科学院アメリカ研究所博士課程中退、早稲田大学大学院博士後期課程単位取得退学。早稲田大学現代中国研究所助手、同客員講師を経て同招聘研究員。専門は現代中国政治。中国の国防体制を中心とした論文あり。
』
中国解放軍海軍の敵は外国ではない。
その敵は身内にいる、
ということである。
『
JB Press 2014.03.31(月)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40298
かつての日本と同じ道を歩み始めている中国軍事力によるアジア新秩序構想は自滅の道でしかない
中国は経済発展とともに、鄧小平の国力に応じ、できることを目立たぬよう、着実に積み上げるという「養光韜晦」戦略を離れ、適宜、
蓄えた実力を一挙に発揮する「大有作為(積極有所作為)」戦略に移行している。
その基本戦略は、軍事力を基盤とする対外強硬方針にある。
特に、海軍力増強による東シナ海、南シナ海への海洋進出や防空識別圏の一方的な設定は、その例であり、アジアの緊張を高め、武力紛争生起すらいとわない態度である。
■中国が経済成長以上に軍事力を拡大する理由
これは、東アジアだけでなくインド洋における行動も、軌を一にし、インドなどと国境だけでなく海洋でも対立し、さらにオーストラリア近海まで海上訓練を拡大、同国の警戒感を高めている。
なぜ、中国は強硬な姿勢をとるのか。
その原因は近代史における受難の歴史と伝統的中華思想にある。
中国は、世界四大文明発祥の地であり、それは漢民族の誇りである。
自身を文明の中心とする中華思想のもと営々と築き上げた民族の政治、経済、文化は19世紀半ば「アヘン戦争」で英国に蹂躙され、じ後、西欧列国の植民地として簒奪された。
さらに、1894年の日清戦争によって、それまで絶対的に優越を信じていた「東夷」の日本にも敗れ、「眠れる獅子」から「張り子の虎」と称されるようになった。
孫文の辛亥革命によって近代化を企図したものの、指導層の内紛、国内の混乱などで明治維新のような成果は上げられなかった。
この間、西欧の権益拡大と日本による大陸進出などでさらに混迷と混乱の極に達した。
第2次大戦後、国共内戦を経て、毛沢東が指導する「共産国家」が成立したが、なお国力は増進せず、米国による「封じ込め」、ソ連とのイデオロギー、領土対立など軍事、政治、経済的にも苦難の歴史を刻んだ。
その中にあっても自主開発による核武装を推進した。
1971年、台湾政府に代わって国連の安保常任理事国になるとともに、70年代後半から、鄧小平が経済優先の「改革開放政策」のもと、世界第2位の経済大国に躍進する基礎を作った。
じ後、経済発展に伴い、核戦力を基盤として陸上戦力、ミサイル戦力を増強、近年は空母建造、原子力潜水艦など海軍戦力を強化し、軍事的にも世界に確固たる地位を占める大国に成長しつつある。
中国は、その軍事力をさらに拡充、近代化し、それを背景として、19世紀以降、アジアに影響を及ぼした西欧主体の「既存の秩序」から新しい「アジアの秩序」を目指し始めているように推察される。
その根底には、自国がアジアでは政治、軍事、経済、文化などすべての面で頂点であるべきという伝統的「中華思想」がある。
「養光韜晦」戦略を離れ、既存の国際秩序を改めようとする中国の行動は、
明治維新以降から太平洋戦争開始に至るまでの日本のそれに、きわめて類似している。
明治維新以降、国家の主権と国土保全のあるべき姿が模索され、『「国家独立自衛の道」は日本列島に沿う線(北海道から沖縄の領土)を「主権線」とし、大陸勢力(ロシア、中国)から防衛、確保することが絶対条件である。
さらに、主権線をより確実に保全するためには、列島線から更に前方に張り出した「利益線」が必要である。
その利益線を侵すものがあれば、これを積極的に排除し、やむを得ざれば、強力を用いて目的を達する』という方針が確立された。
■日露戦争の勝利で奢り変わった日本
日清戦争後、遼東半島を租借、台湾を獲得し、朝鮮半島での清国の影響を排除した日本は国土保全をより確実にする「利益線」を確保した。
しかし、3国干渉による遼東半島放棄に続く朝鮮半島に対するロシアの南下は、利益線を侵す行動、すなわち国土保全に直結する危機と捉えられた。
日露戦争は、「利益線を侵すものあらば強力をもって積極的に排除する」ための戦争であった。
この時期まで、日本は西欧列強の樹立した政治、経済、軍事などの国際秩序に「脱亜入欧」することによって国家の安全と独立を図っていた。
その最たるものが「日英同盟」であり、日露戦争は日本にとっては自衛戦争であったが、他方、西欧秩序における英国と露・独・仏の覇権争闘の代理戦争の側面もあった。
明治期以降、日本の国家戦略は「富国強兵」であったが、常に国力の限界を熟知し、国際協調に意を用いたものであった。
まさに鄧小平の「養光韜晦」で隠忍自重、その状況でできることを着実に実施し国力を向上させることであった。
その例として、日清戦争後獲得した遼東半島をロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって、清に直ちに返還した勇断が上げられる。
また幕末の不平等条約を改正するためにも軍事面だけではなく政治・経済・文化などあらゆる面で総合的な解決法を模索した。
ところが、日露戦争によって、国際社会でアジアの代表としての地位を確立して以降、当初考えていた朝鮮半島、台湾など、従来の「利益線」が「新たな主権線」として捉えられ、それを確保するため、さらに大陸側に「新たな利益線」を推進するようになった。
「新たな利益線」の概念は、明治維新時の「国土保全」という必要最小限の目的を離れ「日本がより繁栄、発展する」という望ましい条件達成へと変貌した。
すなわち、朝鮮併合、第1次世界大戦末期、北樺太における米国石油利権の掌握、また対華21カ条要求の強要、シベリア出兵などは欧米列強から疑惑をもたれた。
ついには、西欧協調の象徴であった日英同盟を失効させ、独自のアジア主義路線を歩み出した。
この間、英米との海軍力拡張競争は、国力の限界を超えるため、ワシントン条約、ロンドン条約など、海軍の適正規模を考慮する国際協調の行動もあったが、主流とはなり得なかった。
1930年代以降、満州国建国、米国の門戸開放政策の拒絶、上海、香港への進出などに加えて、国際連盟からの離脱による国際社会からの孤立化、大東亜共栄圏による経済ブロック構想など日本独自の戦略を進めることになった。
しかし、この戦略は、主として軍事力行使に依ったため、西欧列強から既存秩序を一方的に破壊する行動として警戒されるようになった。
満州事変以降は、軍部主導により、国際協調主義から国防第一主義に転換し、すべての国策は国防の目的達成にあるべきという「自給自足、絶対国防国家」を目指すようになった。
しかし、大陸に進出した日本は、辛亥革命による中国ナショナリズムの高揚と西欧列国の中国への強力な援助と相まって、政治・外交・軍事的に収拾のつかない状況に陥った。
その打開策として、帝国主義の後発国であるドイツ、イタリアと「三国同盟」を結び、日本は、新しい世界秩序を追求するに至った。
これに対し、先発国たる英、米、仏などは既存秩序を維持しようと政治、外交努力を重ねたが、打開できず、ついには第2次世界大戦が勃発した。その敗戦により、日本のアジア新秩序構想への挑戦は潰え、画餅に帰した。
■歴史は時空を超えて繰り返す
習近平の唱える「中華民族の偉大な復興」とその延長上で「アジアの盟主を目指す」は、日本が明治維新以降の「脱亜入欧」に疑問を持ち、アジアには西欧と違った価値観があり、それを基本とするアジアの秩序があるべきという「アジア主義(アジアは1つ、究極普遍的な愛の広がりの世界)」という思想に共通するものがある。
その考え方に、異論をさしはさむ余地はないが、問題はそれを具現化するにあたっての独善的、短兵急な軍事力優先の行動にある。
中国の対外行動、特に、軍事力をもって、東・南シナ海を「核心的利益」に組み入れ、支配下に置こうとするのは、日本が「利益線の推進」のため、勢力圏を拡大した戦略行動に酷似している。
異なる点は、海洋国家日本が大陸に進出し、自己の陸軍力をはるかに超えた膨張をしたのに対し、中国は空母建艦をはじめとする海軍力を拡大し、海洋に進出しようとしているところである。
その進出範囲を東シナ海を含める第1列島線を越え、西太平洋の第2列島線まで拡大させるのは大陸国家の限度を超えている。
海洋は、領海、経済的水域は認められるが、本来、世界共通の交通連絡路としての公共財であり、一国が支配権を主張するべきものではない。
中国の東、南シナ海における近年の海洋活動は世界共通の常識を逸脱している。
もし、その常識が既存秩序であり、それを自国の恣意にすることを新秩序と考えるならば、それは大いなる誤りで、国際社会から受け入られず、国際的孤立を招くのみである。
習近平の軍備拡張と対外強硬外交は、2006年、江沢民の対日対決方針を変換し「日本は戦後平和国家としての路線を歩んでいる。
戦略的互恵関係として共に発展すべきである」との融和路線を放棄し、再び先祖返りをしているものである。
「偉大な復興」は海軍力による周辺海域・空域への独善的な進出・膨張では成し遂げられず、かえって、アジア地域諸国の反発を招き、ひいては世界の異端児として国際社会から忌避されかねない。
まずは、アジアにおいて節度ある行動をとり、地域全体の安定と繁栄に寄与するという国際協調の姿勢が、中国がアジアの中核となる国家であるとの評価を得る道であろう。
■中国は日本の近代史を他山の石とすべし
「偉大なる復興」というスローガンが共産党独裁の維持、言論統制、経済格差の隠蔽、少数民族への圧迫などの隠れ蓑として、狂信的な愛国心を扇動することに使われるならば、やがて収拾のつかない国内混乱をもたらし、「壮大な自滅」につながる恐れがある。
アジアの状況は政治、経済、文化などヨーロッパのような均一性を持つにはほど遠く「モザイク模様」のように複雑、多様な状態にある。
しかしながら、その中に共通するモザイクのピース、例えば経済的面を見ると日中は米国債権の海外分を合わせて約25%以上保有することがある。
このような経済的な面だけであってもアジアの主張を具現化できる道は存在する。
中国は率先し共通のピースを拾い集める主体となるべきである。
いたずらに、アジア圏での対立を煽る近年の態度は中国自身にとって得策でない。
今後とも、中国が不透明な軍備拡張を継続するならば、それを警戒するアジア諸国も防衛力を増強せざるをえず、新たな軍拡競争を生み出す。
そのことはアジア諸国全体の国力を浪費し、不毛な対立と猜疑心を増大させ、アジア自身による秩序確立にはそぐわない結果となろう。
悠久数千年の歴史と文化を有する中国が、アヘン戦争後の苦難を耐え、「独自の戦略と思想」で再興し、現在の国際的地位を築き上げた努力、まさに「臥薪嘗胆」は称賛に値する。
しかしながら、昨今の行動が、軍事力を背景とする排他的な利己主義と疑われ、アジア近隣諸国から警戒されているのは問題である。
中国は、軍事力でなく、発展を続ける経済力、さらに文化力、すなわちソフトパワーをもってアジア諸国と手を携えてこそ、多極化傾向にある国際社会にあって、既存の国際秩序をアジアの秩序に手直しする第一歩となろう。
日本は、明治維新以降、欧米主導の国際秩序の中で国力を蓄え、それをもって、アジア主体の秩序を目指す「大東亜共栄圏」構想に挑戦した。
約80年の歴史の中で「養光韜晦」から「大有作為」の戦略転換を行ったといえる。
これは、半ば成功したかに見えたが、軍事力による排他的利己主義と、地政学的に観るならば、海洋国家の本分を忘れ、大陸へ国力の限度を超えて進出したことで、終には崩壊の道をたどった。
中国は、建国65周年を迎えるが、共産党の指導者は、先駆け日本の近代史を「他山の石」とし、大国としての節度と大陸国家の本分をわきまえる「地政学的歴史」を改めて認識すべきであろう。
Premium Information
久保 善昭 Yoshiaki Kubo
防衛大学校9期生、第42普通科連隊長(昭和63年3月)、陸上幕僚監部研究課長(平成2年3月)、装備開発実験隊長(平成4年3月)、機甲科部長(平成6年3月)、航空学校長(平成8年3月)、第2師団長(平成9年7月~11年3月)
』
『
レコードチャイナ 配信日時:2014年4月14日 21時2分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=86522&type=0
<中華ボイス>
なぜ日清戦争で日本は勝てたのか?
=“鉄血宰相”の言葉から読み解く―映画プロデューサー
● 14日、映画プロデューサーは 「ドイツのビスマルク首相は1871年、
“中国人は目に見えるものしか興味を示さない。このような国が戦争に勝てるわけがない”
と話していたが、事実日清戦争では中国が敗北した」と発言した。
写真は中国の甲午戦争(日清戦争)博物館。
2014年4月14日、日中関係が悪化する中、両国が戦争するのではと指摘する報道をよく目にする。
その中で、軍力で圧倒する中国を優勢とみる人がいれば、
兵士の素養で上回る日本に軍配が上がると予想する人もいる。
これに関連して、中国の映画プロデューサーは、日本の強みと中国の欠点について意見を発表した。
映画プロデューサーは
「“鉄血宰相”ことドイツのビスマルク首相は1871年、
“中国と日本が戦争した場合、勝つのは小国だろう。
中国人は欧州で兵器しか買わないが、日本人は書物を翻訳し、欧州の制度を学んだ。
中国人は目に見えるものしか興味を示さない。
このような国が勝てるわけがない”
と話していたが、彼の言うように後の日清戦争では中国が敗北している。
国の発展には経済が必要だが、それ以上に国の制度や文化が必要だ」
と発言している。
』
【輝かしい未来が描けなくなった寂しさ】